京都駅前の殺風景さに関して

https://news.yahoo.co.jp/feature/1307

 

自分は一時京都に住んでいた。京都出身者の宮崎学の著書「突破者」の中に京都の北は神戸的で南に行くと大阪的な雰囲気があるというが、まさにその表現がぴったりだ。その真ん中にある京都駅周辺はどちらにも属さない、まさに置き去りにされたような感じがしていた。フェンスに囲まれた更地も多かった。本の中では、東京から京都に帰郷した著者が京都駅周辺の開発があまりにも進んでおりびっくりし、そこに住んでいた人たちはどこに行ったのだろうかと思いを馳せるシーンがある。自分が実際に現地を歩いたのはそれから数十年経ているのに、一体どこがという思いしかなかった。それぐらい殺風景だった。
それからしばらく京都に住んでいると、見聞を重ねる中で朧気ながら駅前の手つかずの理由が見えてきた。バスの乗車中に京都駅周辺に差し掛かった際に観光客が靴屋の数に声を上げて驚いていたが、自分とてかつてはその程度の認識だった。


被差別の側を過度に神聖化するのも、これも差別だ。京都駅周辺の開発が難航したのも、差別を逆利用した利権が渦巻いていたからである。だから記事にあるような大学施設が建設する予定だと聞いて、よくあれだけ入り乱れた権利関係をクリア出来たなという思いと同時に、それらを整理するのにやはりこれだけの歳月を要するのかという気がする。
金銭的な問題だけであれば、話は単純化されるのだが。実際はそうはいかない。差別と闘い苦難の歴史を歩んできた人達にとっては、その土地は自分達のルーツであり思い出だからだ。それはお金では買えないものだ。

そのように考えると、自分にとって中東エルサレムの帰属問題がなぜあれだけ長引くのかがようやく分かったような気がする。今までの無理解は宗教的知識の浅ささから来るものだと思っていたが、どうやらそれは人間の根っこの感情に起因するのでないのかとある時期から気づくことが出来た。

この記事を読んでそんなことを思い出した。